らっちの雑記

ブログネタにもならない雑記を書きなぐってみる

コロナ感染日記:Day11~(2/18 Sat以降)

土曜日まで毎日投稿のつもりだったのだが、土曜日は毎週「普通の日記」も投稿しているので、少し間をおいて投稿日をずらしてみた。

週末の「娑婆の空気」

自宅療養期間後初めての「普段通りの」外出。溜まっていた(いわゆる「不要不急の」)用足しであったり、いつも通りの買い出しであったり、久しぶりのジムであったり。

あらためて思うことがあるとすれば、「娑婆の空気は美味かった」だろうか。

木曜の夜に快気祝いがてら飲みに行き、週末も地味にではあるがあちこちと用足しに出掛け、普段の生活らしきこと*1をしながら市井の人たちを見ていた。

街に人が戻ったか、と言われれば微妙だし、むしろよほどのことがなければ混雑するような場所もなく、だからと言って閑散とした感じでもなければ、人がいるところも多々ある。自粛ムードを感じるわけではないけれど、無駄に人が多くいるわけでもない、というか。

良い意味でそういう生活になったのだろう。もちろん、八王子近辺の街中の話だし、都内の繁華街では話も違うのかもしれないが、そういう場所に(用事がなければ)行きたいと思わない、と感じるようになったのかもしれない。

だから、たまに街に出ればリフレッシュにもなるし*2、息苦しさも感じずに外出できるというのは率直に言って「楽しい」。

自粛すべきか、それとも「元に戻る」べきか

「今までの(=コロナ前の)生活に戻りたいか」、という問いに対しては、もともと否定的な意見を持っていた。『ニューノーマル』なる生活があっていいし、人間が持つ順応性があれば、新しい生活様式にもすぐに慣れていくだろうし、それで別に構わないと思っている。

マスク、アクリル板、手指消毒。息苦しさではなく、当たり前のこと、マナーとして存在する、という状態。飲み屋やメシ屋で黙食をしたって別にいいじゃない。

でも、それが息苦しいと思うなら、羽目を外せばいいし、それもまた一つの楽しみなのかもしれない。それはそれで認めていいと思う。場違いだな、と思えば自分が河岸を変えればいいだけの話。

自粛かもとに戻るか、という二極化ではなく、どちらも、そしてその中間も含めて、多様性を認めればいい。飲み屋で*3どう過ごしてもいいじゃないか、と思えればいいんだと思う。そして店の雰囲気が自分に合わなければその店は自分にとってそこで終わりなのだ。

周囲の人たちの中には、「元の世界に戻りたい」と躍起になっている者もいる。そうしたいという気持ちは分からなくもないし、それを否定するつもりも全くない。ただ、若干「俺を巻き込まないでくれ」とは思っている。

もっとも、俺が「俺には俺のやり方がある」なタイプであることは周囲の人たちも分かっているはずなので、強制されることもなければお互いに「ご自由にどうぞ」で終わるのだが。

10年後のことを考える

実は文化を作るのは若者だ、と思っている。コロナ前に大流行りしていたタピオカも中高生や20~30代前半くらいまでの人たち、いわゆるF1層にウケたことが理由のようだ*4が、実は「ニューノーマル」の生活様式についても10年もすれば当たり前になっていくはずだし、そのけん引役が若者になるはず、と思っている。

もっと言えば、今10歳代の子供たちが大人になれば、今の(例えば俺のような50歳代男性を含む)大人が慣れ親しんだ「コロナ前のノーマル」な生活を受け入れることができるかどうかわからないだろうし、違和感しか感じないかもしれない。仕事が終われば飲みにケーション*5、対面前提とした人とのつながり、などなど。

きっと廃れていくんだろうな、と思うし、歳をとればとるほど順応性が薄れていき、「俺の若い頃はよぉ...」と場末に追いやられていくのかもしれない。まるで街の片隅にある喫煙所のように...。

最後に

Twitterで見かけたとあるお医者さまの書き込みが気になった。

あくまでも「個人に起こった事実」であり、その事実に基づいた「考察」である。さすが医者、と言うほかなく、目から鱗が落ちる*6

自分の言葉ではないのだが、まさに未来がそうなっていくのだろう、という一つの姿のように見えるし、そうなっていくのだろう、と感じる。

*1:何をもって「普通の生活」なのかはわからないが、いつも通りの生活をしていた

*2:普段どれだけ外出しないかということでもあるが

*3:最低限のルールは守ることは大前提として

*4:タピオカブームの要因はいろいろ挙げられるのだが、文化として成立するのを後押ししたのはF1層と考えている

*5:コロナ直前にも十分受け入れがたい文化だと言われていたが

*6:さらに言えば、ダラダラとブログで病状やら不安やらを吐露していた自分自身に恥じ入る思いだ